蓮花樓的蓮産地(白河與其周邊的地理)

請按按看地圖上的地名!

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◎白河鎮:

古くは、「店仔口街」と呼ばれ、關仔嶺温泉郷の白水溪の下流に位置する小さな街でした。日本の植民統治時代である1942年(昭和十七年)に「白河街」と呼び変えられましたが、1946年に台湾政府により「白河鎮」と正式に改号しました。


◎關仔嶺:

嘉義(ジャイー)から南東28kmに台南県の關仔嶺(グァンズリン)は、南台湾の有名な温泉郷です。
白河鎮を過ぎて、「白水渓」に沿ってどんどん山道を上り、小さな温泉町に着きます。
關仔嶺温泉の泉質は塩類炭酸質の乳白色泉水です。
近くには「水火同源」という穴から火と水が同時に吹き出している自然の景色があります。


◎北回帰線:

北回帰線は夏至の時にちょうど太陽が真頭上に来るラインです(北緯23度27分4秒51、東経120度24分46秒05)。北進した太陽はここまで来ると、この線から南は熱帯圏となり、北は亞熱帯圏となり、植物分布も椰子、バナナなど熱帯植物が多くなってきます。夏至の昼間の頃、日光の頭上からの直射を受け、影が見えず、凄く暑くなります。
台湾の気候は中央部を通る北回帰線で区分され、北部は温暖湿潤気候、南部は亜熱帯気候に属して、島全体の年平均気温は23℃と温暖です。


☆北回帰線で撮った写真


◎阿里山:

阿里山(ありさん)というのは、18の高山から形成される玉山山脈の支脈で、同富渓を隔てて玉山主峰と向かい合っております。
今から250年以前、ツオウ族の酋長・阿巴里(アリパ)が発見し、以後多くの獲物を部落にもたらしたため、彼の名を記念して阿里山と名付けられました。
阿里山にはめずらしい桧の原生林をはじめ、森林資源が豊富です。しかも、高度の関係で、熱帯、亜熱帯、温帯、寒帯と四つの異なった地帯の植物が観察できます。
阿里山の五景:日の出、神木、森林、夕陽、阿里山鉄道


◎阿里山登山鉄道:

台南県の上に嘉義(ジャイー)から阿里山森林鉄道で上り3時間半、下り3時間10分。定期列車は1日1往復のみ。全長約71.4km、トンネル50、橋77ヶ所。海抜31mの平地から、海抜2274mの阿里山駅へ。
この鉄道は北門駅から阿里山駅まで全長72kmの急勾配の連続する登山鉄道として現在、大勢な観光者に愛されている有名な登山鉄道の一つです。


◎玉山:

玉山(Yushan、ユーサン)は標高3952メートで、台湾島のほぼ中央部に位置する最高峰。先住民ツオウ族の言語ではパットンカン (pattonkan、石英のこと) と呼ぶ。清代初期の文書によれば、八通關山、雪山と呼んでいた。欧米では、商船主モリソンが報告したことから、モリソン山と呼ばれた。日本統治時代は「新しい日本最高峰」の意味で「新高山(にいたかやま)」と呼ばれ、当時日本最高峰になっていました。学校でも「日本一の山」として教えられていた。
周囲は台湾自然生態保護区となっている。また1985年4月6日には玉山を中心とした約10万ヘクタールの範囲が玉山国家公園に指定されている。


◎東山郷:

東山郷は古くは平埔族の居住地域で鄭成功時代から漢人の入植が開始さました。1920年に台湾地方改制の際、この地に「番社庄」が設置され台南州新営郡の管轄となり、戦前の直前に「豊田」に変更したが。戦後、この地が台南県の東方山地に位置し、郷内の東に大凍山が存在したことから「東山」と改められ、台南県東山郷と改編され現在に至っています。
東山は「龍眼」と「珈琲」の生産が有名です。他に台湾の夜市でよく見える「東山鴨頭」の発源地です。


◎烏山頭水庫(烏山頭ダム):

台南縣にある台烏山頭水庫は湖を利用したダムです。湖の形状が”珊瑚”に似ている事から「珊瑚潭」と呼ばれており台南の地域に公共用水を供給しています。

このダムは日本人技師 八田輿一の設計・負責工事で完成したものです。八田與一(はった よいち)は1886年、金沢市に生まれ、東大・土木工学を卒業後、24歳の時(1910年)に台湾総督府内務局土木課の技手として勤めました。 当初は衛生工事を担当していましたが、28歳からは水利事業を担当、設計工事の責任者として桃園の水利事業以降は第一人者として技師として認められることになりました。

56歳で亡くなるまでほぼ全生涯を台湾に住み、台湾のために尽くし、彼は、当時アジア一といわれた烏山頭ダムと1万6000キロにおよぶ灌漑用水路の建設(1920年着工10年を要した大規模土木事業)にあたり、人情味のある現場責任者として農民に慕われました。
八田は太平洋戦争の最中の1942年、陸軍に徴用されてフィリピンに向かう途中、乗っていた船「大洋丸」がアメリカの潜水艦に撃沈されて、この世を去りました。 3年後、戦争に敗れた日本人は一人残らず台湾を去らなければならなりませんでしたが、烏山頭に疎開していた妻の外代樹(とよき)は、他の疎開先から戻ってきた子息と会った日の深夜(9/1)に、夫が心血を注いだ烏山頭ダムの放水口の身を投げて後を追いました。享年46歳でした。
そして昭和21年12月15日、嘉南の農民たちによって八田與一夫妻の墓がその地に建てられました。この名勝地である湖の付近の住民は、八田夫婦のことを麗しい夫婦愛の物語として今でも語り継いでいる。

八田輿一


▲ 烏山頭ダム


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